僕らはまだアフォーダンスにダンスをしているか?身体と建築2015

04/11/2015 デザインと情報

15年を経ても変わらないこと。思い出す機会があって書いておきます。

「身体と建築」は、20世紀の終わり1999年に繰り広げられた武蔵美建築学科の源ゼミの課題。1年半ほどそればかりやっていた。解釈自在で根源的で、私的で詩的なテーマとして、今も染みついているというのはホントの話。

携帯電話が人の距離を変え始めたころ

当時、双方向性というものがデジタルで語られていたかは定かではないが、現実世界に双方向性は存在した。街なかにある段差に人がふと腰掛ける。人とものとが双方に働きかけたとき、そこに椅子という「状況」が生まれる。いわゆるアフォーダンスとの出会い。15年前の懐かしい写真。学生のやることは謎に満ちている…20世紀型UXデザインとでも再解釈しておこうか。柱にバネをつけてみる。するとすべては揺らぎ、物語が生まれる。そこに生まれる「状況」が紡いでいくのはなんだろうか。ユーザーインターフェースの個人的な起源。

works

リアルかバーチャルか。IoTをどう見るか?

異なる「状況」をつないでいくという意で考えていくと面白い。利便性のみの問題解決には首をかしげるような事例も多いものだが、リアルとネットが密接な今では、つながることは自然なこととなのだ。

2015

手法や考え方に関することばが本当に増えた。無意識に飲み込まれないように、自分が何者かを確認しておく必要がある。不透明な時にアタマを「身体と建築」化して再構築する必要が常にある。完成のないプロセスのその先には何があるか?自由であり、次の何かは既に起きている。

幾度かの迷いの繰り返し。迷いどころが変わるだけ

映画「誰も知らない建築の話」(石山友美監督)。20世紀末に状況が変わって模索の時代がはじまった。当時はよくわからなかったけれども、今のような社会問題やコミュニケーションの取り組みも、まだ早い時代だったのかも知れない。今も状況は動的に変わり続けている。

ものすごく多くを省略してしまうけれども、結局、対象はずっと揺らぎ続けるのだ。ネットもリアルも。かつて想像したのとは違う時代にいるとしても、その「状況」を双方向に考え、両方から考える。その時々でね。

実は同じアタマで見ていますということ

久しぶりに教授に会った時に「二藤部くんは建築をやらないの?」なんて寂しそうに言うのだけど、当時から建築って何でしょうねなんて、素直じゃないのでしょうがない。相変わらず、こんなことを書いている時点で。もはや惑う不惑のつぶやきだ。相変わらずである。

目の前の空き家問題やリフォーム後の100年。僕らはどこへ向かっているのだろう。そんな時代に家を建てることを考えるとは?少しは大人になっただろうか。アンビルトの周囲にあったあいまいな何かが現実化しつつある。ワクワクする、それはちょっと先の話。

昔の話はこれにておしまい。 <(_ _)>